来世へ持ち越そう

人間関係って一度こじれてしまったものをどうにかするにはとても体力がいる。

先手を打って動いてみて改善の糸口の掴めるものもあれば、もうどうにもならない程関係が悪化。しまいには目も合わせずに相手から一刻も早く離れようとするような関係にもなりかねない。わたしが特別下手なだけかもしれないが、どうにかこう、上手い方向へ上手い方向へと持ってこうと努力すればする程こじれたものって解けない仕組みになってるらしい。

その相手が友達か、恋人ならまだいい。お互い離れて二度と向き合わないのも選択のひとつだ。それがもし職場の上司だったら、無理だ仕事休みたい。

お互いいがみ合ってるかギクシャクした状態で、尚且つ協力すべきところは協力していかねばならないなんてひどく疲労するものだ。対等な立場でないなら下の者にストレスは加算される。昨日書いたオツボネサマAさんはまさにそれで、どんなに彼女が間違っていると思っても素直に指摘してしまったら散々な有様になることは分かりきっていた。そして周囲は案外「ああいう人だから」なんて目を伏せながら言ってくれるもんである。

そんなとき、あかんなこれ、と思ったときに是非唱えてほしい。来世へ持ち越そう、と。

どう考えても自力でどうにか出来る問題ではないんだから仕方ない。引き寄せの法則かなんかに「焦点を合わせれば合わせるほどそれ自体は大きくなり実現する」というような教えがある。要はここでAさんがいかに間違っているか、自分はいかに被害を被り続けているかを考え続けたって関係は増々悪化するだけなのだ。それよりもやりたいことなら他にある。

何か上手くいかないものについて考えるのを止めるときに使うのだ、来世へ持ち越そうと。ポジティブに諦めると言えば分かりやすいかもしれない。今回はこの人と上手い付き合いは出来なかったけど、まあ来世では上手くやるさ。大親友になってやるさ。こんなかんじである。阿呆らしいと思われるかもしれないけれど一度試してみてほしい。吃驚するほど気が楽になるものなのだ。

同様にしてわたしはなりたかった職業達も何個か来世へ持ち越すことにしている。今回はこっちの道へ進んでみたけれど看護師というのもやってみたかったな、なんて思ったら使うのだ。このときにちらっとでも「いや、今やりたい」と思ったなら諦める前にもう一度ことに当たってみるべきかもしれない。

こうは言ってみたものの来世というものが本当にあるのかわたしは知らない。また人間として生まれるだとか、草木や動物になる可能性もあるだとか、天国だとか、様々な考え方はあるけれど何を信じるかは人それぞれだろう。ただ、わたしは死んでしまえばそれで終わりになるとは思えないのだ。その後にも何かがあるとするなら、どうせなら希望を持ちたい。

とにかくまあ、もっと美人に生まれたかったなあとか思ったときにも唱えてほしい。案外気楽になって今の自分も好きになれるものだから。

オツボネサマの本当のこわさ

過去に病院で受付や診療介助のアルバイトしていたことがある。

さて病院というのはなにかと女性の集まる職場だ。わたしの勤めていた診療所も医師以外は全て女性、というどこの医院でもよくあるバランスだった。するとどうなるかというと、いわゆるオツボネサマというボス級の魔物が育ってしまうのである。

病院とは独自にルールを持つ国家のようなものだと誰かが言っていた。一般的と思われる社会の常識が医療の前では通用しないこともよくある。良くも悪くも閉鎖的で仕事は激務、更に女性ばかりの環境が揃うと吃驚するくらいの大物が誕生することもあるのだ。

その医院にはAさんという経験十年の先輩がいた。未経験でひょっこり現れたわたにとっては大先輩だ。わたしはこのAさんに会って初めてプレッシャーで記憶が飛ぶことも、胃がキリキリ痛むことも経験した。「わたしが仕事を覚えたときはね~」というのが口癖で、一人で作業をしていると必ず近づいてきて誰にも聞こえないように言葉の暴力を敢行するような方だったのだ。

まあ仕事を教えてもらっている立場なら仕方ない。わたしに出来るのはメモを取り一日も早く戦力になれるように励むことだった。しかしAさん、強い強い。お昼休憩のときにだって彼女は自分のプライベートを喋りたいだけ喋り、周囲を疲弊させた。更に恋人と上手くいっているときには自慢話を惜しげもなく披露し、関係が悪化すると他のスタッフがお昼を食べている横で涙ながらに電話を始める。勤務中に私事でクレーム電話をかけても、院内の洗濯機を私用で使っても、患者さんに失礼な態度で接していても、彼女は自分だけが正しいと信じて疑わなかった。そんな彼女を誰も咎められないという環境もそれを助長していた。

勿論、病院に勤める全ての人がAさんのようだとは思わない。優しい人は沢山いるし、協力し合って仲良く運営している医院もあるはずだ。Aさんだってきっと新人の頃にはもっと周囲を見回して勤務に当たっていたはずだ。口癖の「わたしが仕事を覚えたときはね~」も、当時勤めていた医院の人間関係がどんなに悪辣だったかを述べたものだった。そこで這い上がり身に着いたのは無敵の手腕と、周囲への当たりの厳しさだった。彼女がボス級の魔物に育ってしまったのにだって理由がきちんとあるのだ。

「女社会」と聞くとみんな怖々と、そして面白そうだという熱意を込めて注目する。ドロドロとした女の足の引っ張り合いをテレビを通して楽しめるうちはまだいい。現実は寂しいものだ。女性が魔物になってしまうにはそれなりの理由や環境がある。

そしてもし自分のうちにその兆候が見えてしまったら、と考えたとき初めて恐ろしさを体験することが出来る。

ちなみにAさんは事情により早々に退職してしまい、わたしは彼女と一緒に働けたのは二か月にも満たなかった。そんな短期間の出来事が何年も経った今でも強烈過ぎて忘れられない。今こうして記事を書いていると当時を思い出して胃が痛み、手先は冷えてくる始末だ。ああ本当に恐ろしい。

礼儀を尽くして酒を飲む

酒が、お酒が、好きである。

わたしの実家は昔から梅酒を毎年漬けており、父が毎日お酒を飲むこともあって幼い頃から「お酒」というものが親しみやすい環境だったのだ。親族たちがお正月に集まればみんなで楽しそうにお酒を飲んでいるのが、幼心にとても羨ましかったのをよく覚えている。未成年立ち入り禁止のお酒というものはとても魅力的に見えた。その思いは今もずっと続いている。

さて現実で「お酒が好きです」と言い切ってしまうと、言い切られたほうは一瞬面食らってしまうのが普通のようだ。世間は飲酒=悪習慣という図式を持っている。健康への被害、不注意の事故、アルハラ云々。内科医も歯科医も飲酒の習慣はほどほどにと釘を刺すのが普通だ。本人が健康を損なうだけならまだいいが、周りに迷惑をかけられてはたまらない。わたしも小さな頃酔っぱらった父に散々絡まれ大迷惑を被っていた一人であるのでよくわかる。

飲酒が悪習慣として見られるのも仕方ないことだとは理解できる。しかし、しかしだ、酒好きを公言している身としては「毎日飲むの?」だとか「ヒロコさんは飲兵衛だから」等と茶化されると腑に落ちない心地がしてしまう。わたしはお酒が好きで、愛していると言っても良い程の人間だ。誰かとお酒を楽しむ瞬間や一人で家でリラックスして飲む瞬間を特別大切にしている。なので毎日飲むような勿体ないことは出来ない。月に数回がベストだと思っている。飲兵衛と言われたら否定はできないが、わたしは酒への礼儀をわきまえた飲兵衛だ。一気飲みや酒に溺れ過ぎて周囲に迷惑をかける行為は酒に失礼な恥ずかしいことだと思っている。ヤケ酒も苦手だ。つらいときに安易に酒へ手を伸ばすとこんなときに逃げ道に使ってごめんよと思ってしまう。お酒が好きだからこそ、お酒には紳士的な態度で接していたいのだ。

とはいえまだまだ未熟者。ひどく酔っぱらってしまい二日酔いになってから後悔する日もたまにある。それにわたしは消化器系があまり強くなさそうなのでそこも考慮していかなきゃならない。あと50年くらいは生きていたいので健康にも関心がある。酒と付き合い続けるためには努力が必要。それもこれもお酒のためならと思ってしまう。

次はなにを飲もうか、なんて考える幸せな瞬間に、子ども時代のお酒への憧れが続いているのを実感するのだ。

女子高生と気合と生脚

小春日和に浮かれていたところ本格的に冬の寒さが来てしまい、戸惑いを隠せない今日この頃。

そんな時に部屋着にしていたズボンが擦り切れ捨てることに。すぐに買い足さなくても暫くはなんとかなるさと思い、またも一人暮らしにかまけて素足で寝ていたら朝体が冷たくなっていて後悔しました。

そういうわけで冬恒例の防寒グッズを求めてあちこち走り、裏毛の寝間着やヒートテックタイツやらをお買い上げ。ここ数年でおしゃれなデザインの増えた腹巻もついでに買えたので一安心だ。

腹巻や袖丈の長い肌着は少し前なら「おじさんの物」「ババシャツ」なんてイメージだったのに、最近の浸透具合はどうしたことか。女性だっておしゃれな人だって、冬も温かく過ごしたいのがきっと本音だろう。そこをおしゃれ部分を殺さず上手く取り入れやすくしてくれた防寒グッズ達には拍手を送りたい。「インナー」という言葉、このちょっとおしゃれそうな響きが大事だ。

変えた荷物を抱えて帰り際、駅には可愛い女子高生達が歩いていた。短めの制服のスカートからにゅっと出た生脚を見てドキッとする。なにも疚しい気持ちだけではない。年々寒さに勝てなくなっているのを痛感する身としては「冬の生脚」にも心臓の冷える思いがしてしまうのだ。彼女たちの嬉しそうな顔を見ているとたまらず買ったばかりの裏毛スウェットを差し出したくなってしまう。

「寒いのにあんなに脚を出して」と憤る方もいるだろう。だけど考えてみてほしい、制服のスカートというのは長さに関係なく寒いのだ。長ければそりゃ風の当たりは弱くなり多少違うかもしれない。でも学生服の素材というのは冬でも基本的に寒かったはずだ。長くても短くても寒いのならおしゃれなほうを選ぶのが普通だろう。

制服を着ていた時代を思い出すと、どうしてあんなに寒い中で脚を出せていたのだろうかと不思議になる。スカートなんて筒だ。その下に体育用のハーフパンツを履いても膝下が丸出しではそこまで意味が無い。学校指定の靴下だって特に温かいわけでもない。それでもみんなで脚を出す。

聞いた話では雪国の地方の女子高生もギリギリまで生脚で頑張るらしい。例えジャージやスウェットを履くのが許されていたとしてもスカートを選ぶ。そこには強いこだわりがあるのだ。

あの世代がキラキラ輝いて見えるのも、そんな努力の積み重ねがわたし達には眩しく見えるからかもしてない。プライド、若さ、集団心理、その他もろもろ。彼女達は自分の意思を毎年貫き通している。そんな戦士達にも拍手を送りたい。

トラウマだった映画を見返す

今年やりきったこと、乗り越えたことのひとつとして映画「ライフ・イズ・ビューティフル」を実に十年ぶりくらいに観たのが個人的に心に残っている。

とても有名な映画なので観たことのある方も多いと思う。わたしの通っている中学校では自習の時間にこの映画を教室で流していたことさえあった。ユダヤ系イタリア人の親子の、戦時下でのなんとも心に残る温かくて切ない映画だ。

これを初めて観たのは確か小学生の頃だ。家族の誰かがレンタルショップで借りてきたものだった。幼い頃なので難しい話は分からなかったが、主人公グイドのユーモア溢れる人柄に多いに笑わされた。どんな真面目そうな状況でも楽しませてくれる面白い映画だなとだけ思っているのである。これは完全にグイドの息子、ジョズエと同じことを感じ取っていたのだと今になって思う。

そして暫く時が経ち、高校生になったわたしはこの映画をまた観る機会に巡り合えた。昔大好きだった面白い映画をまた観たくなったのである。観はじめてみると小さな頃には気づけなかった散りばめられたユーモアを再発見出来てまた多いに楽しめた。嗚呼やはり素敵な映画だ、と思いながら見続けていくと物語は後半へ移っていくのである。幸か不幸かわたしには主人公一家の巻き込まれていた事情が全て分かってしまう年齢になっていた。戦争、収容所。もうジョズエと同じ視点では観れないことに気が付いた。主人公グイドがあんなにはりきって家族を笑わせてくれていた理由も深く理解することが出来た。高校生のわたしは猛烈に泣いた。

これまでレンタルショップでライフ・イズ・ビューティフルの文字を見ると決まって切なさに目をそらしてしまっていた。自分の中では素敵な映画であることに違いなかったが、思い出すと悲しい気持ちでいっぱいになり耐えきれる自信がなかったのである。

それから10年程時は経ち今年、ふと目についたその映画を勇気を出してまた観ることに成功した。可笑しくて、切なくて、10年前とは違った発見がまだまだあった。今回は後半のシーンでもなんとか泣かずに観ることが出来た。主人公がつらい状況でも家族を笑わせてくれていた最大の理由、大きな愛を感じ取ることが出来たからだと思う。

心にずっと引っかかっている映画は案外誰にでもある。過去によく理解出来ぬまま観てしまい、わけもわからずトラウマのような感情を持ち「二度と観るものか」と誓ってしまった映画があるという人もいるだろう。又はわたしのように小さな頃には楽しんで観れたはずが、年を重ねるにつれてストーリーの深さを知り怖くなってしまう場合もある。

もしその映画のことを考えると胸が痛むような思いがしても、長年気になってしまい実は観たくて仕方ないのだと気づいたなら思い切って観ることをおすすめしたい。気になるということは、きっとそこに自分の求めている何かがあるのだ。

勿論、たかが映画鑑賞といってもデリケートな問題なので無理は禁物。相手は手ごわいと思うならお酒や一緒に観てくれる友人の力を借りるのも手だ。もしどうしても勇気が出ないとしたら未来のもっと成長した自分に託してもいい。

ちなみにわたしの姉は名作「ダンサーインザダーク」を久しぶりに見返したくて仕方ないらしい。わたしもこの映画を前には逃げ出したくなる、が、姉からの吉報を待ちたい。

 

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選ばれる美容師、選ぶ客

「男の美容師さんって年とったら独立したがるんですよね、居づらくなっちゃうから」

美容の専門学校へ通っていたある後輩の言葉に驚いた。

田舎のわたしの地元でも美容室はそこかしこに見かけられて、これ!というお気に入りの店を見つけるまでいつも迷ってしまう。

良い美容室の見分け方とかない?なんて気楽に聞いてみたのが始まりだった。

「だっておじさんに髪触られるのって嫌じゃないですか。お客さん的には、多少下手でも若くておしゃれな子に切ってもらいたいって思うでしょう」

西野カナみたいな、と言葉が続く。

なるほどなるほど、確かに美容師さんのイメージといったらおしゃれで、とにかくおしゃれで、若い人が多かったと思う。

なんせ「サロン」という世にもおしゃれなワードを使うことが許されているのだ。

手の込んだカラーリングやワックスでぴしりとセットされた美容師さんに連れられて、あのピカピカの床を歩くのはいつも緊張するし、特別感にわくわくした。

その中で40歳以上と見られる男性は見たことがないかもしれない。

女性はたまに見かけることがあったけれど、こちらも多分少数だ。

おしゃれな美容室はつま先からてっぺんまでキメた、若い美容師さんでいつもいっぱいだった。

勿論、地元密着型の気楽な雰囲気のお店ならもう少し状況も変わってくると思うが。

「なので美容師ずっと続けたい男の人はオーナー側にまわろうとするんですよ」

後輩はそう続ける。

渋谷、原宿あたりをうろついていると沢山の美容師さんが声をかけてくる。

多くは新米美容師が修業のために頭を貸してくれる人を探していたり、店舗への呼び込みだ。

狭い地元でも小さなチラシを配布している美容師は何人も見かける。

なんでこんなに美容室はあるのか、その答えが後輩の言葉で少しわかった気がした。

ではそんな数多く存在する美容室の中で良い美容室の見分け方というのはないのだろうか。

当時、長年指名させてもらっていた美容師さんが病気で退職してしまい、わたしは新たな美容室を探し求めて何件もまわっていた。

特別髪にこだわりがあるわけではない。ショートカットの好きなわたしにとって美容室は頻繁に通わねばならない場所であり、通うからにはリラックスして過ごしたいという気持ちがあったのだ。

しかしイメージしていたのと全く違う仕上がりにされてしまったり、お店や客層の雰囲気が合わなかったりと二度と行かない美容室だけが増えていく。

インターネットでレビュー評価の高い店も行ってみたが、いまいち期待はずれなことが続いていた。

これだけ数多くある美容室の中で、外から見ただけで「当たり」だとわかるような見分け方はないものか?

「うーん… お店っていうより美容師さんそれぞれだと思いますよ。お客さんとの相性が一番ですから」

「鏡がよく磨かれている」とか「鋏がよく手入れされている」などあるらしいが、見ただけで良い店だと判断するには難しいらしい。

それよりも美容師個人と客とが「合う」かにかかっているというのが後輩の意見だ。

確かにあの退職してしまった美容師さんのことが思い出される。

彼女はわたしと同年代だったので話の趣味が合っていたし、カラーリングやセットの仕方を面倒見のいい友人のようにアドバイスしてくれるところが好きだった。

そしてカットの技術はとびきり上手ということはなかったと思う。

前髪を切ってもらうと後から切り損ねた毛何本も出てきたことはしょっちゅうだったし、なんだかなあと思う仕上がりもあったのだ。

それでもこの人に切ってもらいたい、と思い続けて長年通っていたのだった。

わたしが美容師に求める条件はリラックスして楽しい気分にさせてくれるかが重要だったのだとその時気が付いた。

ハイレベルな技術でスタイリングしてほしいという方も、ただ短く切り揃えてもらえればなんでもいいという方も、美容室は苦手だと思う方も、もし今通っている美容室に満足していないのなら新たに他のお店を試してみてほしい。

ご存じの通り美容室はそこかしこに沢山あり、その中にはきっとあなたの要望にマッチした美容師さんがいるからである。

ところで最近わたしはやっとお気に入りの美容師さんを見つけることが出来た。

これでやっと美容室通いが楽しめそうだ。

今回の人は特別おしゃれでないが、要望を聞きつつ似合うスタイルを吟味してくれるところがとても気に入った。

そしてなんとわりかし年配の、技術のしっかりした男性だ。

マッサージを受けるとしたら考えてしまうが、髪をいじってもらうのなら是非お願いしたいと思っている。

ボス戦前の小春日和

夏と冬、どちらが得意か。

そう聞かれたら考えて考えて考えた挙句夏だと答える。

冷え性にとって朝起きて布団をどけた途端に冷気が舞い込む冬は大敵だ。

この頃は毎朝泣きたくなりながら戦っている。

今が12月として、あとたっぷり3か月以上は寒さに耐える必要がある。

そしてまだこの時期は冬に入りかけと言ってもいいだろう。

これから増々太陽が遠ざかり、人々は着膨れし、トイレの便座は冷たくなってくのだ。

ああ考えただけで恐ろしい。

しかしなんの気遣いか知らないが、この季節にぽっかりと暖かく、春を思わせるような陽気に包まれる日がある。

名を小春日和という。

昨日も寒い、今日も寒かった、ああこれから冬なんだと寒さに対し気を引き締めていた矢先。

突然起きてみれば空気は柔らかく、その日だけは春のように穏やかなのである。

なにやら移動性高気圧というものが気を利かせ、これから冬に立ち向かわねばならない我々にエールを送ってくれているらしい。

さながらボス戦前の全回復&セーブポイントのように。

わたしのような冷え性だけではなく、冬季鬱病に毎年悩まされる方にも小春日和は優しくしてくれるだろう。

ありがたやありがたや。

やるじゃないか移動性高気圧。

夏と冬、どちらが好きか。

そう聞かれたら迷わず冬だと答えることが出来る。

寒くなればファーのついたお気に入りのコートを着れて、鍋料理に日本酒が最高に美味しくなる。

先に控えるクリスマスもお正月も楽しみだ。

小春日和はそんなことを思い出させてくれるセーブポイントである。